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<前編>知ってた?浮世絵にちょっと詳しくなれるトリビア。墨一色から始まり極彩色な浮世絵ができるまで。

 

江戸の大衆文化の中で花開いた絵画、浮世絵。

実はわたしたちの日常で使う「見当をつける」という言葉が、浮世絵を制作する際に使用する印が由来になっていることや、浮世絵がその時代のトレンドを写していたことをご存知でしょうか?

今回は、そんな浮世絵に少し詳しくなれる、ちょっとためになるトリビアを前後編に分けてお伝えします。浮世絵の見方が変わったり、浮世絵がちょっと身近になるかもしれません!

前編となるこの記事では、私たちが思い浮かべる色鮮やかな浮世絵が制作されるまでの紆余曲折や意外な制作方法をご紹介します!

後編では200年以上に渡る浮世絵の中で生まれた役者絵や美人画、風景画、他にも多数のジャンルをご紹介します。

<後編>知ってた?浮世絵にちょっと詳しくなれるトリビア。人気のジャンル8つをご紹介。

 

葛飾北斎《冨嶽三十六景 山下白雨》1830–32

 

 

 

1、江戸の庶民の間で花開いた浮世絵

 

「浮世絵」は江戸の「トレンド」を写す雑誌のようなもの?!

 

そもそも浮世絵とはどんな絵画のことを示すか知っていますか?浮世絵というと版画を想像するかもしれませんが、実は、江戸時代に成立した絵画様式です。
浮世絵は歌舞伎や遊女といった当時流行していた娯楽などの様々なテーマで描かれ、庶民層を中心に盛り上がりを見せました。

 

2、極彩色の浮世絵が誕生するまでの紆余曲折

 

浮世絵というと、葛飾北斎の「富嶽三十六景」のように、様々な色が使用された極彩色のものを想像する人が多いのではないでしょうか?

 

当時大流行した葛飾北斎の色彩豊かな版画《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》1830–32

 

このような多色で刷られた浮世絵は、色とりどりの糸で織った「錦」のような色合いということから、「錦絵」と呼ばれています。しかし、この錦絵が完成するには紆余曲折があり、長い月日をかけて辿りついたのです。

 

浮世絵の始まりは1点ものの肉筆画から

 

では、どのような道のりがあったのでしょう?

浮世絵は大きく分けて肉筆画版画の二つがあり、初めは筆で直に描く肉筆画のみだったのです。肉筆画は浮世絵師が1点1点書き起こす、いわゆるオーダーメイドであったため、高価で大量生産には向きませんでした。

 

版画の多色刷りの進化

 

大量生産に向かない肉筆画に対して、版画は大量生産・低価格が可能というメリットから庶民の間で広まるようになり、私たちが思い浮かべる浮世絵が主流となっていったのです。

 

①17世紀中頃:浮世絵版画の幕開けは墨1色刷り

 

初期の浮世絵版画は墨一色の「墨摺絵(すみずりえ)」から始まりました。ちなみに、版画はもともと絵としてではなく、本の挿絵として使用されていましたが、文章よりも絵を主役にした形式が人気を博し、版画が絵として独立し、発展して行きました。

 

本の挿絵から発展した墨摺絵。『姿絵百人一首』 絵師:菱川師宣 1695

 

②17世紀後半:墨の版画+手で着色

 

17世紀末頃から、墨一色の版画に手で色を付けて制作されるようになります。
紅色や丹色を基調として黄土色、草色、藍色などを1点ごとに職人が手で彩色を施していきました。彩色する色によって呼び名があり、光沢ある黒色を使用し黒を強調するなど、彩色に工夫をこらしていましたが、手彩色はいまだ時間と手間がかかるものでした。

 

丹絵。鳥居清忠 1715

 

 

③18世紀中頃:墨の版画+3色刷り

 

1744年頃から、後に紹介する「見当」という技術を使用することで、色彩も版画で刷り、製版する「紅摺絵(べにずりえ)」が現れます。色摺りができるようになったとはいうものの、色数には限界があり、3、4色という程度で、濃淡やグラデーションが付けられず、表現方法は限られていました。

 

紅摺絵。鳥居清満画《九代目市村羽左衛門》1759年頃

 

 

④18世紀中頃:極彩色の錦絵が誕生!

 

いよいよ、制作技術の開発が進み、江戸時代の中頃(18世紀半ば)には、色が鮮やかで多色刷りの錦絵が誕生します。また、化学染料の発展によって、北斎が多用したベロ藍などが使われ、より一層色彩豊かになっていきました。

 

歌川広重《東京名所 従上野公園 不忍池中嶋弁天之景》1881

 

 

100年をかけて着々と発展した浮世絵

 

このように、およそ100年の歳月をかけて墨一色の版画が、墨と数色の彩色から多色へ、そして極彩色の錦絵へと版画技術の向上と共に、発展を遂げていったのです!

 

墨一色→墨+数色→多色→錦絵

 

 

3、効率的!浮世絵制作の分業体制

 

では、浮世絵の中でも色彩豊かな錦絵はどのように制作されていたのでしょうか?

制作過程は、各工程を絵師、彫師、摺師がそれぞれ担当する分業体制で、いわゆるベルトコンベヤー方式だったのです!絵師はデザイン、彫師は木版画の版を制作、摺師は印刷という様に役割分担がされていました。摺師が一日に生産する分量を「一杯」と呼び、200枚前後が摺られます。作品の売れ行きがよければ、追加注文を受けて本のように増刷されていく仕組みが取られていたそうです。

ちなみに、歌川広重の東海道の連作は、江戸時代の当時、爆発的にヒット!10,000枚以上も摺った作品もあったのだとか。初版が200枚とすると50回も版を重ねたと思えばどれだけヒットした作品なのか想像が広がりますね。

 

歌川広重《東海道五十三次》1833–34年頃

 

実際に、錦絵ができるまでの大まかな5つの工程を見ていきましょう。

1、絵師が原画を描きます。これを「版下絵」と呼びます。
2、彫師が版下絵をもとに版画のベースとなる主版を掘ります。その主版を和紙に摺り「校合摺(きょうごうずり)」を作成します。
3、絵師が色分けをします。一色一版となるように版を作るために、校合摺に色ごとに色分けをします。
4、彫師が色版を彫ります。絵師が色付けした箇所以外を彫っていきます。
5、摺師が和紙に摺っていきます。

 

絵師、彫師、摺師と工程ごとに分業して制作されている様子。
歌川豊国《今様見立士 農工商 職人》1857

 

このように、作業によって分担がされていました。一つの錦絵を絵師、彫師、摺師で手分けして制作するので、チームワークが必要な作業だったことがわかりますね。

 

4、現代に残る浮世絵の面影

 

上述した工程を得て制作された浮世絵は、200年も前に制作されたにも関わらず、今でも色褪せることなく鮮やかに残っていることに驚きはしませんか?それも、全て人の手で制作されているということは現代の私たちからすると驚愕ですよね。というのも、江戸時代の浮世絵は、摺師が顔料の粒子を和紙の繊維の奥まですり込むように摺っていたからなのだそうです。

そんな浮世絵は、今なお色鮮やかに現存しているだけでなく、私たちの日常の意外なところに面影を残しているのです。

 

浮世絵から生まれ現代に残る言葉「見当違い」「見当をつける」

 

「見当」という言葉は、浮世絵の名残りが残った言葉で、冒頭で説明したように、元々浮世絵版画を摺る際に使用された「見当」と呼ばれる印からきています。

具体的には、版木に掘られた「見当」という印を基準に和紙の置き場をきちんと決めて摺ることで、多色で複数の版木があってもずれること無く版画が制作できたのです。「見当」の印をつけることで「見当をつけて」いたわけです。実際に、私たちが日常で使用する「見当」という言葉も似た意味で使いますよね。日常の意外なところに浮世絵の面影があったことがわかります。

 

後編は浮世絵人気の9ジャンルを紹介!

 

そんな浮世絵を少し掘り下げてみると、意外に知らないことも多かったのではないでしょうか?
私たちが思い浮かべる色彩豊かな浮世絵ができるまでにはたくさんの試行錯誤を得ていたことや、錦絵の制作工程が分業式であったこと、浮世絵由来の言葉を私たちが普段さりげなく使っていたことなど、今回の記事を通して浮世絵をより詳しくなれたのではないかと思います。

浮世絵作品をみる際は、今回ご紹介したトリビアも交えて鑑賞して見てはいかがでしょう?

後編では、浮世絵の人気の8つのジャンルをご紹介していますので、そちらもぜひご覧ください!

<後編>知ってた?浮世絵にちょっと詳しくなれるトリビア。人気のジャンル8つをご紹介。

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